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無疑とは所知障がなくなったこと

      2024/07/01


じょうじょうしんだつしんだつ如来にょらいなり
しんだつに​いたり​て​ぞ、あい無疑むぎと​は​あらはるる (浄土和讃)
この無愛無疑ですが、一般に愛は欲のこころ(親鸞聖人の左訓)、貪愛で、疑は疑いのこころ(親鸞聖人の左訓)で、疑煩悩と理解されがちです。また、このうたは阿弥陀様の浄土に行って、真の解脱が得られるという意味ですので、これをもって、疑心往生の根拠にされる方もいるのですが、どちらも間違っていると思います。
ここで言う、無愛とは煩悩障がなくなったことであり、無疑とは、所知障がなくなったことを言っています。(親鸞聖人の左訓はこの説明でも意が通じます)
これは、涅槃経のそのあとに次のようにあることからもわかります。
解脱不爾若得成於阿耨多羅三藐三菩提已無愛無疑。無愛無疑即眞解脱。眞解脱者即是如來。若言解脱有愛疑者無有是處。又解脱者斷諸有貪。斷一切相一切繋縛一切煩惱一切生死一切因縁一切果報。如是解脱即是如來。如來即是涅槃。
さて、無愛は問題ないとして、無疑が所知障を断ずることを指すのを理解するには、仏様の悟りについて理解する必要があります。仏様には、現量(直感)のみあり、比量(推量)がありません。仏様は、現量で三世十方のすべてを理解できます。それを一切智といいます。つまり推測する必要が本来ないのです。比量が必要になるのは、一切智を妨げる障害(所知障)があるからです。ですから、この所知障がある間は、(菩薩は)比量で物事を推測する必要があるわけです。所知障があるから「あれはなんだろう」という疑問があるというわけです。その疑問がなくなるから、無疑と言ったのです。 疑煩悩とは、特に真実、仏教に対しての疑問を持ち、後ろ向きな思いになることをいうのであって、比量で推量する際の一般的な疑問は入らないのです。
さて、お経を読んでいると、お釈迦様と一般信者との会話があり、あなたは誰かとか色々お釈迦様が質問されている箇所が見受けられます。現量ですべてがわかるなら、これはどういうことかと疑問に思うでしょう。これは、お釈迦様が私達を驚かせないために、わざと、そういうやり取りを取っておられるです。
私は台湾で有名な治療師のところに何度か通ったことあります。最初の診察のときは、私の脈を取りながら、どこが悪いと指摘しました。特に私が幼少のときに交通事故にあって、その障害のあとが体に残っているための病気だと言い当てました。あとから聞いた話だと、脈を取る必要もなく分かるようなのですが、最初の人が驚くので、脈を取っていると聞きました。脈を取るのは漢方の先生などがされている診断方法だからそれを真似ていたようです。
お釈迦様は、初めての人に質問される必要はないのですが、私たちに合わせて質問をされているのです。
さて、もう一つ大事なことがあります。聞法では初事に聞くことが大切だという話を聞いたことがあると思います。信者さんは、聞法に飽きがなく、いつも初事と聞くといわれていますね。これは現量でいつも私達を理解される仏様の認識に通ずるところがあり面白いです。仏様は、その人の過去のことを直感で理解されます。比量が不要ということは、記憶を土台とした推量(比量)は不要であるということです。つまり、「こう(記憶を土台)だから、こう(推量)というような推測などなくても物事を把握できるのです。いつもそのとき、初事として理解されるわけです。

 - 法雷窟